若草幼稚園では“遊ぶ”ということと同じくらいに、“絵本”を大切に思っています。
毎日、帰る前の集会で必ず絵本の読み聞かせをしていますし、休日の前日には子どもたちに貸し出しをして、家でもお父さんお母さんに呼んでいただいています。
幼稚園の時期の子どもたちにとっての絵本は読んでもらうべきものなのです。確かに、子どもたちは年長組になると文字に興味を持つし、文字を身につける子どもたちも大勢でてきます。自分で読めるようになるのです。
そうなると、先を急ぐ大人たちは、読み聞かせをするのがよくないことのように考え、自分で読ませようとします。子どもたちは自分のつたない知識を精一杯使って絵本を読もうとします。そしてそれが残念なことですが、本嫌いな子どもになっていく始まりなのです。
文字を覚えたての子どもたちが自分で絵本を読むと、文字だけを必死においかけます。文字を文章として捕らえるのではなく文字の一字一字としてしか読めないのです。
そのとき、その本の素晴らしい言葉や絵や物語は、子どもの感性の何も刺激しませんし、そのことは子どもたちにとって楽しい体験であるわけはありません。絵本のその絵と言葉は子どもたちの想像力と一緒になることで子どもたちの心の中に楽しい世界をつくりだすのです。その世界なしには絵本の意味はないように思います。
ところが、絵本を子どもたちに知識を与える道具として考えたり、しつけに役立てようとする大人達が大勢いるのです。そんな大人達は絵本を読んでいる途中でいろんな質問をしたがります。「豚は何匹いるかな?」「この花は何色ですか?」「だから外では帽子をかぶるんですよ!」そんな質問をされるたびに子どもたちの心の中の楽しい世界は、消えてしまうのです。気持ちを取り直して絵本の続きに没頭しようとしても、もう絵本のなかに入り込めないのです。
そんな質問をした時に、もう大人は子どもたちから絵本の世界を取り上げてしまっているのです。そのときから、その子どもは本嫌いの道を歩き始めるのです。それは、間違いなく大人の責任なのです。そして、絵本には素晴らしい言葉で実にさまざまな人生が語られています。
本当はわたしたち大人が(特に親が)子どもたちに人生を語って聞かせるのが役目でしょう。
毎日、帰る前の集会で必ず絵本の読み聞かせをしていますし、休日の前日には子どもたちに貸し出しをして、家でもお父さんお母さんに呼んでいただいています。
幼稚園の時期の子どもたちにとっての絵本は読んでもらうべきものなのです。確かに、子どもたちは年長組になると文字に興味を持つし、文字を身につける子どもたちも大勢でてきます。自分で読めるようになるのです。
そうなると、先を急ぐ大人たちは、読み聞かせをするのがよくないことのように考え、自分で読ませようとします。子どもたちは自分のつたない知識を精一杯使って絵本を読もうとします。そしてそれが残念なことですが、本嫌いな子どもになっていく始まりなのです。
文字を覚えたての子どもたちが自分で絵本を読むと、文字だけを必死においかけます。文字を文章として捕らえるのではなく文字の一字一字としてしか読めないのです。
そのとき、その本の素晴らしい言葉や絵や物語は、子どもの感性の何も刺激しませんし、そのことは子どもたちにとって楽しい体験であるわけはありません。絵本のその絵と言葉は子どもたちの想像力と一緒になることで子どもたちの心の中に楽しい世界をつくりだすのです。その世界なしには絵本の意味はないように思います。
ところが、絵本を子どもたちに知識を与える道具として考えたり、しつけに役立てようとする大人達が大勢いるのです。そんな大人達は絵本を読んでいる途中でいろんな質問をしたがります。「豚は何匹いるかな?」「この花は何色ですか?」「だから外では帽子をかぶるんですよ!」そんな質問をされるたびに子どもたちの心の中の楽しい世界は、消えてしまうのです。気持ちを取り直して絵本の続きに没頭しようとしても、もう絵本のなかに入り込めないのです。
そんな質問をした時に、もう大人は子どもたちから絵本の世界を取り上げてしまっているのです。そのときから、その子どもは本嫌いの道を歩き始めるのです。それは、間違いなく大人の責任なのです。そして、絵本には素晴らしい言葉で実にさまざまな人生が語られています。
本当はわたしたち大人が(特に親が)子どもたちに人生を語って聞かせるのが役目でしょう。