喜怒哀楽こそが感性を磨く
松山でも早期教育・英才教育を謳い文句にした施設がいくつかあり、それぞれが繁盛しているようです。
私には早期教育というのが、どういう意味なのか、よく理解できていません。人間の早い時期に教育をするという意味であれば、幼稚園の教育も間違いなく早期教育でしょう。
幼稚園にくる前の2歳、1歳を対象と考えているのでしょうか。どうもそうではないようです。幼稚園に教育とは別なところにあることばのようです。
私の常識ではその時期からは始める必要のない事柄について、うんと早い時期に始めるということでしょう。
文字にしても、子どもたちが文字に興味を持ち始めるのは5歳、6歳ごろでしょう。そして、今までの長い歴史の中でも、そのころから文字の学習を始めていたのです。そのことは大きな意味があるのです。それまでの数年間にしておかなければならないことが、それこそ山ほどあるからなのです。それもその年齢でないとならなことがです。
例えば、赤ちゃんは泣きます。そのときお母さんは、すぐに何を置いても、赤ちゃんのそばに駆けつけオムツを換えたり、オッパイを飲ませたりしてあげます。けれども、赤ちゃんはお母さんに来てもらう、ということを意識して泣いている訳ではありません。
ただ、おしっこで気持ちがわるいとか、おなかがすいたとか、不快感を訴えているだけなのです。それをお母さんがすぐ聞き取って、その不快感を取り除いてあげるということを繰り返していると、赤ちゃんは、泣けばお母さんが来て、気持ち良くしてくれると理解でき始めるのです。そうなれば、赤ちゃんは意識して、泣くことを親を呼ぶためにするようになります。これは見事に親子のコミュニケーションの始まりでしょう。コミュニケーションする能力も人間は生まれたときから持っている訳ではなくて、親が面倒がらずに繰り返し対応することで、子どもの身についていくのです。その後、言葉につながっていくのです。これはその後、意識していなくても、いい意味での教育なのです。
早期教育という言葉はこういうことにこそふさわしい言葉のように思います。
「勉強ができる」「…ができる」というのが合言葉なのでしょう。それも、今できる、今すぐできるというのが、良いことのように思われて多くの人に受けているのでしょう。
けれども、人間の知的な発達が、低年齢の子どもや、小学校の1年生や2年生のころの勉強ができるということで、はかれるほど簡単なものではないと思います。
彼らが成人して自分の人生を生きるようになって、困難なことに出会ったとき、どんな知恵がだせるかとか、周りの人達と楽しく過ごせるとか、力を合わせて、助け合って生きているんだということ、仲間外れは死ぬほどつらいと知っているとか、そういうことなんじゃあないかなと感じます。
そのようなことを、途方もなく大量にその子の頭と心の中心に溜め込んでいかなければならない時期なのです。それは外からは簡単に見えるものではないのです。
まだまだ心配はあります。幼児期から机の前で、大人から教え込まれることに慣れてしまうことです。人には人の考えがあり、自分には自分の考えがあるということに気づかないまま幼児期を過ごしてしまうことです。
自分の意志に気がつくというのは、その人の人生の出発として非常に大切なことです。人のいうことをきく子どもになれというのは、人のいうことをきく大人になれというのと同じことなのです。
良い子は心配なんですよ。良い子は疲れるんですよ。
この子どもたちが成人して社会に出ていくのは、15年から20年先のはなしです。そのころに必要とされている人間はどういうタイプか想像したことがありますか。現在もすでにそういう時代だと思いますが、記憶することや、計算することは、すべて機械がやるんですよ。人間がすることではなくなっているんですよ。そういう力では、人間はコンピューターには勝てないですよ。機械にできないのは、創造することと、想像すること、この両方の“そうぞうりょく”だと思います。これが人間の役目になってきます。
そして一番大切なのは人間には“こころ”があるということです。それは、もちろん点数なんかではあらわせないのです。
このことを考えながら、子どもたちを育てていかなければなりません。
結局、幼児期の子どもたちの教育は“感性教育”なのです。子どもたちが持って生まれてきた素晴らしい感性を磨く教育なのです。それは机の前でできることではありませんし、言葉で伝えることでもないのです。
友達と遊ぶ毎日の生活の中で、いろんな事件にぶつかり、友達の気持ちが解り、自分の気持ちを解ってもらい、お互い影響を与えあい、感動し、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、泣き、笑いながら、子どもたちの感性は磨かれていくのです。
えひめ雑誌 きょういくNOW (ざっくばらん)より
松山でも早期教育・英才教育を謳い文句にした施設がいくつかあり、それぞれが繁盛しているようです。
私には早期教育というのが、どういう意味なのか、よく理解できていません。人間の早い時期に教育をするという意味であれば、幼稚園の教育も間違いなく早期教育でしょう。
幼稚園にくる前の2歳、1歳を対象と考えているのでしょうか。どうもそうではないようです。幼稚園に教育とは別なところにあることばのようです。
私の常識ではその時期からは始める必要のない事柄について、うんと早い時期に始めるということでしょう。
文字にしても、子どもたちが文字に興味を持ち始めるのは5歳、6歳ごろでしょう。そして、今までの長い歴史の中でも、そのころから文字の学習を始めていたのです。そのことは大きな意味があるのです。それまでの数年間にしておかなければならないことが、それこそ山ほどあるからなのです。それもその年齢でないとならなことがです。
例えば、赤ちゃんは泣きます。そのときお母さんは、すぐに何を置いても、赤ちゃんのそばに駆けつけオムツを換えたり、オッパイを飲ませたりしてあげます。けれども、赤ちゃんはお母さんに来てもらう、ということを意識して泣いている訳ではありません。
ただ、おしっこで気持ちがわるいとか、おなかがすいたとか、不快感を訴えているだけなのです。それをお母さんがすぐ聞き取って、その不快感を取り除いてあげるということを繰り返していると、赤ちゃんは、泣けばお母さんが来て、気持ち良くしてくれると理解でき始めるのです。そうなれば、赤ちゃんは意識して、泣くことを親を呼ぶためにするようになります。これは見事に親子のコミュニケーションの始まりでしょう。コミュニケーションする能力も人間は生まれたときから持っている訳ではなくて、親が面倒がらずに繰り返し対応することで、子どもの身についていくのです。その後、言葉につながっていくのです。これはその後、意識していなくても、いい意味での教育なのです。
早期教育という言葉はこういうことにこそふさわしい言葉のように思います。
「勉強ができる」「…ができる」というのが合言葉なのでしょう。それも、今できる、今すぐできるというのが、良いことのように思われて多くの人に受けているのでしょう。
けれども、人間の知的な発達が、低年齢の子どもや、小学校の1年生や2年生のころの勉強ができるということで、はかれるほど簡単なものではないと思います。
彼らが成人して自分の人生を生きるようになって、困難なことに出会ったとき、どんな知恵がだせるかとか、周りの人達と楽しく過ごせるとか、力を合わせて、助け合って生きているんだということ、仲間外れは死ぬほどつらいと知っているとか、そういうことなんじゃあないかなと感じます。
そのようなことを、途方もなく大量にその子の頭と心の中心に溜め込んでいかなければならない時期なのです。それは外からは簡単に見えるものではないのです。
まだまだ心配はあります。幼児期から机の前で、大人から教え込まれることに慣れてしまうことです。人には人の考えがあり、自分には自分の考えがあるということに気づかないまま幼児期を過ごしてしまうことです。
自分の意志に気がつくというのは、その人の人生の出発として非常に大切なことです。人のいうことをきく子どもになれというのは、人のいうことをきく大人になれというのと同じことなのです。
良い子は心配なんですよ。良い子は疲れるんですよ。
この子どもたちが成人して社会に出ていくのは、15年から20年先のはなしです。そのころに必要とされている人間はどういうタイプか想像したことがありますか。現在もすでにそういう時代だと思いますが、記憶することや、計算することは、すべて機械がやるんですよ。人間がすることではなくなっているんですよ。そういう力では、人間はコンピューターには勝てないですよ。機械にできないのは、創造することと、想像すること、この両方の“そうぞうりょく”だと思います。これが人間の役目になってきます。
そして一番大切なのは人間には“こころ”があるということです。それは、もちろん点数なんかではあらわせないのです。
このことを考えながら、子どもたちを育てていかなければなりません。
結局、幼児期の子どもたちの教育は“感性教育”なのです。子どもたちが持って生まれてきた素晴らしい感性を磨く教育なのです。それは机の前でできることではありませんし、言葉で伝えることでもないのです。
友達と遊ぶ毎日の生活の中で、いろんな事件にぶつかり、友達の気持ちが解り、自分の気持ちを解ってもらい、お互い影響を与えあい、感動し、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、泣き、笑いながら、子どもたちの感性は磨かれていくのです。
えひめ雑誌 きょういくNOW (ざっくばらん)より