制服
松山の人達は制服が大好きのようです。
幼稚園の大部分が子どもたちに制服を着せて通園させていますし、小学校もいちおう標準服と言っているようですが、ほとんどが同じ服装で通学しているようです。それでも、少しずつですが私服で園生活や学校生活をしはじめた幼稚園や学校も出はじめています。
それと反対に、ブランド物や有名なデザイナーの名前を前面におしだして幼稚園をアピールするところもあるようです。それを園の売りものにして園児を集めようとしているのだろうと思います。子どもたちを、かわいいかわいい着せ替え人形にしたい親御さんはそんな園を好んで通園させるのでしょう。
そんな服を着せなくても子どもたちは充分にかわいいし魅力的だと思いますけどね
そして、そんな所ほどわりと簡単に、個性を大切にしましょうといいます。個性を大切にするということは、そんな簡単なことではないような気がします。全員が同じ姿で2年も3年も、もしかしたら10年も15年も生活しながら、個性を発揮しなさいというのは間違いです。制服と個性は反対の側にあることでしょう。
若草幼稚園では5年程前(ざっくばらん掲載時から)に制服がなくなりました。昨年10月のこの欄で書いた運動会が変わっていったのと同じころです。それまでは、グリーンのセーターで腕にスクールカラーの若草色のラインが、胸にはわたしのデザインの園のマークが入ったかっこいい制服だったんですよ。それも2、3年前に変えたばかりだったんです。近所の洋服屋さんに無理をいって作ってもらったばかりだったんです。その前は、ほとんどの幼稚園がそうであるような、紺のスーツでした。
わたし自身の好みでは制服は好きではありませんでしたが、そのころは制服のない幼稚園をほとんど見ることはできませんでした。制服を着て幼稚園にくるのが当たり前だと思っていたし、私服の通園などは想像もできませんでした。今の制服のある幼稚園はほとんどがそう感じていることでしょう。
そのころ、制服のない幼稚園を見学する機会をもつことができました。大きなショックを受けました。子どもたちの表情が違うのです。若草幼稚園の子どもたちと顔が違うのです。
制服がなくなる前も私たちは若草幼稚園の子どもたちは子どもたちらしい“いい顔”をしていると信じていました。のびのびと明るく園生活をしていると思っていました。それは間違っていたようです。本当の子どもの顔を、心が開放されたときの子どもの顔を私は見たことがなかったのだなぁと心の底から思いました。
それでわたしは制服をなくすぞと心に決めました。それは年度の途中でしたが、新学期まで待てませんでした。そして、わたしにはそのころの若草幼稚園の保護者の方は制服が好きなんだということが解っていましたし、制服をやめることが、激しいブーイングを招くと解っていました。
どうすればいいのか悩みの日々があり、ある日保護者に手紙を書きました。「制服が汚れたり、気分的に着てきたくないときは着てこなくていいですよ」。
この手紙の効果は絶大なものがありました。
最初は女の子がかわいい服装で登園しはじめました。1ヶ月もしないうちに8割位の子どもたちが私服になってしまったのです。
子どもたちは制服が嫌いだったんだなというのを実感したことでした。
制服のプレッシャーはわたしたちの想像をはるかに越えるものがあるようです。
今、若草幼稚園の子どもたちは非常にレベルの高い“どろだんご”を造ります。園庭の土と水でおだんごを造るのです。最初は“さら砂”造りから始まります。完成の検査は、そのだんごを頬っぺたにこすりつけて、ざらっという感じがなくならないといけないのです。本当にカチカチのピカピカのテカテカの見事な“どろだんご”を造ります。ところが制服のあるころは、あまりだんごを造る様子は見れませんでした。造ってもインスタントな安易な、袋に入れるとすぐ壊れるような物だったのです。どうも子どもたちは制服は汚してはいけないんだと思っていたようです。どろだんごを造ると顔まで真っ白になるくらい土まみれになるのです。
制服には、もっともっと大きな問題があるのです。
わたしたちは人が生きて行くうえで自由や平等とおなじくらい大切なことに“違いを認め合う”ということがあると思っています。地球には男、女、色の黒い人、白い人、黄色い人、障害のある人、ない人、太った人、痩せた人、おしゃべりな人、無口な人、実に様々な人達が一緒に暮らしています。すべての人々はお互いの違いを認め合って生活していかなければなりません。
よく考えて見てください。子どもたちは幼稚園・小学校・中学校・高等学校と十数年間を同じ服装で過ごし、同じがいいことで、違うのはよくないことだと教えられるのです。
これではお互いの違いを認め合うことなどできる訳がありません。最近また、陰湿な“いじめ”がクローズアップされています。
そのいじめの対象にされているのが、自分たちと違う相手のように思います。自分より勉強ができるとか、できないとか、自分よりおとなしいとか、行動的とか、違うことがきになってしかたがないように見えますね。そういう意味で、いじめの原因の一部分に制服があるように思います。
それでなくても、服装は個人の問題で、自分で決めるのは個人の権利でしょう。丸刈りを強制できないのと同じことなのです。
一日もはやく子どもたちの制服がなくなり、日本中の子どもたちが解放された心からの明るい笑顔で毎日の生活ができればといつも思っています。
松山の人達は制服が大好きのようです。
幼稚園の大部分が子どもたちに制服を着せて通園させていますし、小学校もいちおう標準服と言っているようですが、ほとんどが同じ服装で通学しているようです。それでも、少しずつですが私服で園生活や学校生活をしはじめた幼稚園や学校も出はじめています。
それと反対に、ブランド物や有名なデザイナーの名前を前面におしだして幼稚園をアピールするところもあるようです。それを園の売りものにして園児を集めようとしているのだろうと思います。子どもたちを、かわいいかわいい着せ替え人形にしたい親御さんはそんな園を好んで通園させるのでしょう。
そんな服を着せなくても子どもたちは充分にかわいいし魅力的だと思いますけどね
そして、そんな所ほどわりと簡単に、個性を大切にしましょうといいます。個性を大切にするということは、そんな簡単なことではないような気がします。全員が同じ姿で2年も3年も、もしかしたら10年も15年も生活しながら、個性を発揮しなさいというのは間違いです。制服と個性は反対の側にあることでしょう。
若草幼稚園では5年程前(ざっくばらん掲載時から)に制服がなくなりました。昨年10月のこの欄で書いた運動会が変わっていったのと同じころです。それまでは、グリーンのセーターで腕にスクールカラーの若草色のラインが、胸にはわたしのデザインの園のマークが入ったかっこいい制服だったんですよ。それも2、3年前に変えたばかりだったんです。近所の洋服屋さんに無理をいって作ってもらったばかりだったんです。その前は、ほとんどの幼稚園がそうであるような、紺のスーツでした。
わたし自身の好みでは制服は好きではありませんでしたが、そのころは制服のない幼稚園をほとんど見ることはできませんでした。制服を着て幼稚園にくるのが当たり前だと思っていたし、私服の通園などは想像もできませんでした。今の制服のある幼稚園はほとんどがそう感じていることでしょう。
そのころ、制服のない幼稚園を見学する機会をもつことができました。大きなショックを受けました。子どもたちの表情が違うのです。若草幼稚園の子どもたちと顔が違うのです。
制服がなくなる前も私たちは若草幼稚園の子どもたちは子どもたちらしい“いい顔”をしていると信じていました。のびのびと明るく園生活をしていると思っていました。それは間違っていたようです。本当の子どもの顔を、心が開放されたときの子どもの顔を私は見たことがなかったのだなぁと心の底から思いました。
それでわたしは制服をなくすぞと心に決めました。それは年度の途中でしたが、新学期まで待てませんでした。そして、わたしにはそのころの若草幼稚園の保護者の方は制服が好きなんだということが解っていましたし、制服をやめることが、激しいブーイングを招くと解っていました。
どうすればいいのか悩みの日々があり、ある日保護者に手紙を書きました。「制服が汚れたり、気分的に着てきたくないときは着てこなくていいですよ」。
この手紙の効果は絶大なものがありました。
最初は女の子がかわいい服装で登園しはじめました。1ヶ月もしないうちに8割位の子どもたちが私服になってしまったのです。
子どもたちは制服が嫌いだったんだなというのを実感したことでした。
制服のプレッシャーはわたしたちの想像をはるかに越えるものがあるようです。
今、若草幼稚園の子どもたちは非常にレベルの高い“どろだんご”を造ります。園庭の土と水でおだんごを造るのです。最初は“さら砂”造りから始まります。完成の検査は、そのだんごを頬っぺたにこすりつけて、ざらっという感じがなくならないといけないのです。本当にカチカチのピカピカのテカテカの見事な“どろだんご”を造ります。ところが制服のあるころは、あまりだんごを造る様子は見れませんでした。造ってもインスタントな安易な、袋に入れるとすぐ壊れるような物だったのです。どうも子どもたちは制服は汚してはいけないんだと思っていたようです。どろだんごを造ると顔まで真っ白になるくらい土まみれになるのです。
制服には、もっともっと大きな問題があるのです。
わたしたちは人が生きて行くうえで自由や平等とおなじくらい大切なことに“違いを認め合う”ということがあると思っています。地球には男、女、色の黒い人、白い人、黄色い人、障害のある人、ない人、太った人、痩せた人、おしゃべりな人、無口な人、実に様々な人達が一緒に暮らしています。すべての人々はお互いの違いを認め合って生活していかなければなりません。
よく考えて見てください。子どもたちは幼稚園・小学校・中学校・高等学校と十数年間を同じ服装で過ごし、同じがいいことで、違うのはよくないことだと教えられるのです。
これではお互いの違いを認め合うことなどできる訳がありません。最近また、陰湿な“いじめ”がクローズアップされています。
そのいじめの対象にされているのが、自分たちと違う相手のように思います。自分より勉強ができるとか、できないとか、自分よりおとなしいとか、行動的とか、違うことがきになってしかたがないように見えますね。そういう意味で、いじめの原因の一部分に制服があるように思います。
それでなくても、服装は個人の問題で、自分で決めるのは個人の権利でしょう。丸刈りを強制できないのと同じことなのです。
一日もはやく子どもたちの制服がなくなり、日本中の子どもたちが解放された心からの明るい笑顔で毎日の生活ができればといつも思っています。